2012/05/25

兵庫建築一揆 2

開催後だいぶ経ってしまいましたが、各班の提案内容とちょっと講評を。

まずは1班。

大阪市内のとある長屋密集地のヴォイドをコミュニティの場にするという提案。 コミュニティーのきっかけとして、震災時に構造的不安のある長屋の構造を補強するフレーム(構造的にほとんど効かないようなものだったけど・・・)を外部にまで突き出すことにより、そこにテントのようなものをかけて、居場所をつくる。
この案は、長屋の「裏」が地域コミュニティの場になるという点で、一見魅力的だったのだけれど、このような提案に適したヴォイドが地域の中にどれだけ存在し、どれだけ閉じたものではなく開けたものにできうるのか。どれだけの、どの範囲の住人たちまでコミュニティの対象に入れているのかなどが議論された。結果、どうも、今回見つけてきた場所だからこそ可能な案で、汎用性が少ない印象で残念。

2班。

花壇により、集合住宅内のコミュニティを形成するという案。人が住む場所もグリッドだけ決めておき、住人自身にどこに住むかを自由に決めてもらうというもの。
高低差などもあり、風景として楽しげな案。花壇と生活の距離を住人が選びながら住むという集合住宅のかたち。
けれど、残念なのは生活する場のプランが普通だったこと。花壇との関係や、外部との関係、他の住戸との関係性などがプランに影響してきていてもよかったのではという印象。
あとは、みんなでコミュニティ=共同する=花壇という提案が既視感があることが残念。

3班。

入居率が60%程度になった集住をスケルトンにし、これもまた、住人自身が他者と距離をはかりながら住む場所を決めるという案。
距離をとる方法として、すりガラスの開口部や、布?で仕切った吹き抜けなどの仕掛けが提案されていたけれど、それがあまり魅力的ではなかったのが残念。そのような材料に頼った提案ではない方法で距離を設計して欲しかった。それと、やはり居住率を60%のまま提案するのでは、共用部が豊かになるのが当たり前なのだから、もう少しリアリティのある提案が欲しかった。

4班。

まちのコミュニティ形成に、「祭り」を持ち込むという提案。「来た!」と思うも、どうも私が思う魅力と、彼らの考えていることに食い違い多数。。
祭りというのは、年1回の出来事ではなく、その日のために組織される祭り独自のコミュニティがある。また、そのコミュニティが集まる場もとても大切な場となり、祭りは日常に溶け込む。「祭り」は一見、「非日常」的であるが、実はとても地域の「日常」になりうるものである。
なのに、提案が、祭りの際に神輿が通る順路の提案というイベントの提案にとどまっており、神輿を収納する倉庫を提案しているにもかかわらず、その倉庫はあくまでも倉庫であって、「目立たないもの」「黒子」として質疑応答の際も、断じて建築的に提案しようとしなかったことが残念。

5班

まちへの記憶、愛着ってどこから生まれるんだろう?という疑問から始まった提案。
グループメンバー各自の原風景をスケッチしたり、ディスカッションする中で、人の記憶に残るまちの風景のきっかけを探っていた。
まちや、都市の日常を考える中で着眼はよかったのだけれど、最終的に選んだ敷地に行ってみたら、既に、「凄く人と人との関わりが深いいい町だった」「僕たちの理想の町だった」で終わってしまっており、それが情緒的なことで完結していて、設計言語にまで行き着かなかったのが残念。

6班

既存の木造住宅に、シェルターのようなボリュームを挿入するという案。
最初のプレゼンの時に、「他は壊れても残るシェルターを持つ住宅を新築する」というので、それなら、全部が壊れないものをつくろうよ。。。という話になったのだけれど、ディスカッションをするうちに、既存の住宅に挿入するシステムだと考えているというメンバーもいて、それならアリかという話に。
OCTの去年の卒制で、同じような提案があった。
要するに、構造的に不安な住宅に、被災時に「最低限の生活の場」になりうるコンクリートの構造体を挿入する。日常時はもちろん普通の住宅の一室として機能し、被災時、もしも他の部分が崩壊しても、この構造体は残り、「最低限の生活の場」として、また、自分の家があった「場所の証」として、「復興のきっかけ」としてあり続ける。
いつ起こるかわからない震災のみに備えるのではなく、日常をも快適にし、もしもの時はそれが人々を守り、コミュニティを残し、復興のきっかけとなる「備え」の提案はありうるかもしれないと思った。
しかし、彼らの提案でおしいのは、「日常」を快適にしてくれるものではなかったこと。あまりにも、シェルターが構造体でしかなく空間化されていなかったこと。でも惜しい。

最後に7班

これも、2、3班と同じく、コミュニティ形成のために、参加型で建築をつくる案。
柱と屋根だけ与え、まずは一番小さいスケールのものとして「一人の居場所」をつくる。次の段階で、それが住宅となり、最終的には公共施設となり、都市となる。という提案。
参加型で、「囲い」をつくるために、かたちを規定しないように与える屋根はいびつな形をしている。システムとしてわからなくもないが、やはりリアリティに欠ける。いったい誰がどのようにプロデュースし全体をまとめていくのか。所有の問題はどうなるのか。など。

今回のテーマに対して、7班中5班が震災によりコミュニティの大切さを感じ、コミュニティ形成のための住人参加。という提案だった。他の2班は土地への記憶に対する提案。確かに、住人が「つくる」プロセスに関わるとそこに愛着が湧き、コミュニティ形成のきっかけになることは様々なワークショップが各地で行われていることからも分かる。

しかし、そのファシリテーションやプロデュース、システムづくりが大切なのであって、単に、「住民が自由に」とか言っていると夢物語で終わってしまう。

今回のテーマでは、震災という「非日常」をきっかけに「日常」を捉えなおし、建築をとりまく環境を再構築、再定義するきっかけになればという意図であった。
「非日常」に「備える」だけではなく、それが「日常」を豊かにできるものが魅力的だと考える。そういった意味では、どの班もちょっと惜しい!という感じ。
しかし、3日間という時間、真剣に震災について考え、それなりの答えを出したことは評価できると思うし、いい機会だったと思う。
ここで考えたことを忘れずに今後も、建築とは何かについて考え続けて欲しいと思う。

ということで、私もいろいろ考えさせられました。

呼んでくれてありがとう!

作品解説が間違ってたらゴメンナサイ。私の記憶に残っている解釈です。

これらの作品を実際に見たい方は是非、KIITO( 神戸商工貿易センタービル26階 2620号室 )へ!

現在、(5/19~6/3まで)これらの作品が展示されているそうです。